今から50年以上も昔の小学五年生の時、授業もせず私たちには自習をさせて自分は宅建の勉強ばかりしていた担任の先生の授業をボイコットしました。教室の軒下に座り込んでいると、クラスメイトが続々外に出てきて、結局全員で座り込み抗議をしました。その先生はPTAでも問題になり、辞めていきました。
学年の途中で、頭の禿げた先生が代わりにやってきました。その頃はもう学校の先生にすっかり失望していて、どうせまたろくでもない先生しか来ないんだ……、と思っていました。
その先生は自己紹介の後、「私は、みんなに勉強は教えません!」と言い出したので、私はまたかよ!と思ったのを覚えています。この先生も何か自分のことだけやりたいんだ、と思ったのです。教室もざわざわしていました。
「私はまだまだ勉強が足りていません。だから、みんなに教えてもらいたいんです。」クラスの誰かが「先生なのに???」と言うと、何人かが笑いました。
「勉強は、やってもやっても終わりがありません。皆さんは、例えば算数の分数の掛け算のページが終わったら、それはもうそこで終わり!と思うでしょう。でも実はまだまだ終わらないのです。
私は勉強には終わりがない!と言われたことがショックで頭がくらくらしました。私の中では、学校で単元テストが終われば、その分はお終いという意識しかなかったのでした。
「どうやって勉強すればいいか、わかりますか?」と、先生は私たちに聞きました。
「テストのやり直しをします!」
「教科書を見ます」
「わからなかったところをお母さんに教わります。お父さんは怒るから。」
「そうか、それらは復習って言って、前に習ったことをしっかり頭に入れる作業ですね。」「他に何か思いつく方法はありますか?」
私は手を挙げて何か言いたかったけど、思いつかなくて自分にイラっときていました。
「私はみんなに、予習をしてもらいたいのですよ。やったことありますか?」教室中がしーーーんと静まりかえっていました。
「明日は、社会が有りますね、まずはそこから始めましょう。明日は「日本の工業」についてをやります。みんなは、教科書に書いてあることの他に何か一つでもいいのでどんなことでもいいので自分で調べて、先生に教えてください。そして調べた本も明日持ってきてください。よろしくお願いします。」先生は私たちに頭を下げたのでした。
5年生ともなれば教科書に太字で書かれた文字が大事なことを意味しているのはわかっているので、学校の図書室は放課後5年生でいっぱいになりました。私はその日家にあった参考書を調べて出来るだけたくさんの情報をノートに書き込んで、重たい参考書もランドセルに入れて登校したのでした。社会科の授業が始まるのをワクワクして待ちました。授業が待ち遠しいと感じたことなどなかったので、自分が自分を不思議なものを見る目で見ているような感じでした。
6人ずつのグループを作って、グループごとの学習になりました。先生は腕組みをしてニコニコとしているだけで、社会科の教室はみんなが自分の調べてきたことをグループの仲間に伝える作業でワイワイ賑やかに進んで行きました。
授業の終わりに先生が
「さて、どんなことが分かりましたか?わたしにも教えてください。」と言うと、普段は手など絶対にあげない子達まで、「はい!はい!はい!!」と手を挙げたのです。自分が調べてきたことを先生に教えてあげなきゃ!と思ったのです。
この先生の姿勢は、6年生の終わりまで続きました。私を始めクラスのみんなは自分で調べて理解するということを徹底して学んだのです。この事はその後のわたしの人生に大きな影響を与えてくれました。勉強って教わるもんではなくて、自分でやるもんなのね、と思ったのです。今でこそグループ学習も調べ学習も当たり前ですが半世紀以上前にこの方法を実践された飯泉先生には、足を向けて寝られないと今でも思うのです。