二つのエピソードを。
ある日、生徒が彼のもとにやってきて、「私はたくさんの本を読みましたが、多くのことを忘れてしまいました。読書の目的は何ですか?」と尋ねました。
その時、教師は彼に答えませんでした。
数日後、教師は生徒に非常に汚れた状態で壊れかけたざるを渡しました。
教師は生徒にこのざるを使って最も近くの川から水を運ぶように頼みました。
生徒は「効率が悪すぎる」、と瞬時に思いましたが、宣誓にそれを伝える勇気はありませんでした。
生徒は川に行き、ざるを水で満たして帰る旅を始めました。
数歩進むと、ざるの中の水は穴から漏れてしまいました。
その後、生徒は再び川に戻り、ざるを再び満たしました。
色々工夫をして、何とかわずかでも水を運ぼうとしましたが、結局、数歩歩くと水はすべて零れ落ちました。
そして、ざるで水を運ぶことは不可能だと判断しました。
彼は悲しい顔で教師のもとに戻り、「私はこのざるで水を運ぶことができませんでした。」と言いました。
すると、教師は微笑みました。
それを見てごらん、とざるを指さします。
ざるは新品のように変わってきれいになりましたね。
教師はその課題の真の意味を説明しました。
読書はザルで水を運ぶようなものかもしれないが、水を運ぶのではなくザルを綺麗にするという捉え方もできるはずだよ、と。
二つ目
高校時代の物理の先生がある授業中に、
「おい君たち、勉強というのはな」と、トイレットペーパーの真ん中を指差しながら
「実際に拭き取る箇所はここ」
「つまり周りの汚れていない紙は無駄になる。でもそこがなかったらこうして満足に拭き取ることもできない。勉強も同じや。確かに将来学んだことの大部分は無駄になるんかもしれんけど、その余白があるからこそ活かすべき学識をな、活かせるときに発揮できるんや」
それを聞いて教室からはどよめきが上がったが、私は「なんて素晴らしい例えなんだ…。とてもわかりやすい、勉強とはまさにかくなるものだ、感動した!」
などとなることは一切なく、この先生は勉強をうんこで例えるのかい、となった。